Blog #13 「“記録”のビッグデータから“思い”を読み解く」

2023.08.11

カテゴリ: イスラーム信頼学ブログ

執筆者: 太田(塚田)絵里奈

 昨今、歴史研究の分野においてもデジタル・ヒューマニティーズが着目されています。一口にデジタル・ヒューマニティーズといっても、テキスト分析、データベース化、ネットワークの可視化など、提案されている手法は様々です。これらは一見、アナログ的な史料精読とは真逆の方向性のようにも思われますが、分析結果の精度を高めるために、どのような史料をどう扱うかという、対象とする史料の性質を見極める作業が不可欠であることは、従来的な研究プロセスと何ら変わりません。

 私は前近代期のアラブ・イスラーム史を勉強していますが、そこで中心となるのはウラマー(イスラーム的知識人)によって書かれた年代記、人名録などの叙述史料です。必然的に、彼らの記す同時代社会像は、学者としての日々の営為が色濃く投影されたものになります。ウラマーは預言者ムハンマドの時代へと遡及する伝承(ハディース)の系譜上に自らを位置づけ、彼らの「学統」を次世代へと継承することが、イスラーム共同体における重要なミッションと捉えていました。それゆえに、この時代の叙述史料の分析にあたっては、純粋なる同時代社会の「記録」という側面のほかに、ウラマーが継承し、次世代へと残さねばならない、連綿と続く共同体としての「記憶」が含まれていることを心に留めておく必要があります。同時代の記録を「水平方向の情報」として捉えるならば、共同体としての記憶は、過去から未来へと受け継がれていく、「垂直方向の情報」といえるかもしれません。


【Voyant toolsによる15世紀人名録の分析(『9世紀の人々の輝く光』)】

 同一の事件や人物をめぐり、同時代の史料における描写は、肯定的・否定的などの主観的表現のほか、何をどこまで詳細に記録するかという情報の「粒度」においても実に様々です。人間の手になる史料である以上、そこに著者自身のステータスに由来する何らかのフィルターがあるとすれば、情報を取捨選択した理由についても思いを巡らさなければなりません。テキストの分析にあたっては、誰が、いつ、何を、どこで行なったかという事実関係を示す情報が重要であることはもちろんですが、私は自身の公募研究課題を通じ、ウラマーが同時代社会をいかに解釈し、またそれをどのような共同体の記憶として次世代に残そうとしているかという社会的コンテクストにも焦点を当てられるような研究を行ないたいと思っています。

 歴史知識のデータ化には、たとえば現在デジタル・アーカイブなどのデータベースを構築する基幹技術であるRDF (Resource Description Framework)を応用することができます。RDFはいわゆる「データのデータ」を記述する言語で、情報は「主語」・「述語」・「目的語」という3つの要素を用いて表現します。15世紀を代表する人名録である『9世紀の人々の輝く光』を例に、その著者がサハーウィーであることを示すには、『9世紀の人々の輝く光』を「主語」として、著者を「述語」、サハーウィーを「目的語」に設定します。実際には、原著はアラビア語で記されており、また同姓同名の多いアラブ系の人名表記においては、別人物と混同される可能性も残ります。そこで、RDFにおいては、単語の意味や用法における解釈のブレを排除するため、主語、述語はウェブ上のリソース(URI)で示す約束になっています。

 図の通り、書名と著者名などの固有名詞を文字列ではなくURIに基づくIDで管理し、述語部分も「著者」や「作者」というような、使用者や言語によって幅のある表現ではなく、Dublin Core Metadata Initiativeの定義するプロパティである“creator”(=An entity primarily responsible for making the resource: https://www.dublincore.org/specifications/dublin-core/dcmi-terms/elements11/creator/)を用いることで、同名の事物の混同や、言語に由来する表記の揺れを回避することができます。

 歴史知識のデータ化におけるメリットとして、関連情報を自在に付加できること、ネットワークの可視化が容易である点がまず着目されます。しかし、RDFの本領はクエリ(問い合わせ)言語SPARQLを用いた検索にあります。私たちにとってなじみの深い文字列での検索では、検索ワードに関する言及がテキストのどこにあるかという点しかわかりません(紙媒体史料しかなかった時代からみれば、デジタルテキストの存在自体、大きな進歩なのですが・・・)。SPARQLでは、「人物Aが場所Bにおいて時間軸Cのなかで関係を持った人物は誰か」「人物Aの師Bを通じて遡及する学統に属するのは誰か」というように、欲しい情報を変数で指定して抽出することができます。データが大きくなるほど、クエリを用いたRDF推論システムは人間の処理能力を超える力を発揮するでしょう。


【セマンティック・ウェブとして描いた家系図(15世紀の官僚名家・ムズヒル家)】

 13~15世紀のアラブ地域では、大部な年代記や人名録が数多く記されています。しかしこのような史料的な豊かさが、この時期の人間模様をめぐる研究において、総体的な議論を難しくしてきました。史料から得られる、到底人間の目では追いきれないデータ量を、質的プロセスを踏まえて扱うことができれば、デジタル・ヒューマニティーズ的手法は、これまで積み重ねられてきたケーススタディをより大きなコンテクストへとつなげていくための有力な突破口となる可能性を秘めています。イスラーム共同体において過去から受け継ぎ、そして未来へと残していきたい知識とは何か。そしてその過程に何が介在しているのか。時代を記録した「ビッグデータ」から得られる推論によって、当時を生きた人々の「思い」までもが見出せるかもしれません。

【参考文献・サイト】

執筆者プロフィール

太田(塚田)絵里奈(Erina Ota-Tsukada)

東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所・特任助教

慶應義塾大学院文学研究科後期博士課程在学中にエジプト・アラブ共和国立カイロ大学留学(2008~2011年)。博士(史学)。慶應義塾大学文学部・言語文化研究所講師、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所共同研究員等を経て現職。現在はRDF等のデジタル・ヒューマニティーズ的手法を取り入れ、アラビア語人名録史料の機械可読化を進める。主要論文に”Formation of the Ideal Bureaucrat Image and Patronage in the Late Mamlūk Period: Zayn al-Dīn Ibn Muzhir and ʻUlamāʼ” , Al-Madaniyya 1, 2021, 41-61、訳書に『イスラームの形成:宗教的アイデンティティーと権威の変遷』(共訳)、慶應義塾大学出版会、2013年など。2019年住友生命女性研究者奨励賞。

ひとこと

前近代アラブ・イスラーム史研究のなかで、人間の「生態」観察を通じ、他者とどのような「つながり」を作ることで生き残ろうとしたかという「生き残り戦略」の解明に取り組んでいます。また近年、「学知の共創」というキーワードのもと、学問の魅力や価値を社会に発信することが求められるなかで、人文社会学の普遍的な英知を対話的に実感・共有できる機会を作りたいと思っています。

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