Blog #11「特集:信頼学のキーワードを考える」

2023.03.30

カテゴリ: イスラーム信頼学ブログ

執筆者:

特集:信頼学のキーワードを考える
(「オンライン座談会:「イスラムの都市性」から「イスラーム信頼学」に向けて」より)

この記事は『イスラーム信頼学News Letter』No.2(2022)からの転載です。

2021年10月9日、本プログラムの評価委員である加藤博氏(一橋大学名誉教授)と三浦徹氏(お茶の水女子大学名誉教授)を迎え、黒木英充研究領域代表を交えて「イスラムの都市性」から「イスラーム信頼学」に向けて」と題したオンライン上での座談会を開催した。三名は、「イスラムの都市性」(重点領域研究、1988-90年度)、「イスラーム地域研究」(学術創成研究、1997-2001年度)の研究メンバーであり、その経験や成果や問題点が論じられたが、ここでは、「イスラーム信頼学」の背景やそのキーワードとなるコネクティビティやネットワークにしぼって座談の内容を紹介する。

「イスラーム信頼学」開始の経緯
黒木今回、自分が「コネクティビティと信頼構築」のテーマの原型をいつから考え始めたか、と振り返ってみました。おそらく「信頼」に関して共同研究が可能ではないか、と研究会後の酒席でつぶやいたのが2004~2005年頃かと思います。「信頼」「信用」について研究上の関心を持ったのはそれよりも早く、シリアでの長期滞在を終えた1990年代からエッセイを書いていました。本プロジェクトのブログにダマスクスの絨毯商人のことを書きましたが、アレッポのこんな話もあります。スーフィーのシャイフのお宅に電話がなかったので事前連絡なしで訪ねたが不在だった。するとその妻が、夫の仕事場への道案内役として、2 歳半の幼子を私に預けたのです。奥さんは、いわゆる女性隔離社会の習慣で、ドア越しに言葉を交わすだけで私の顔すら見ていませんでした。
 2001年の9/11事件があって、先日も20周年でいろいろな報道がありましたが、イスラームをめぐって「不信」が地球規模であふれかえるような世界になってしまいました。特に近年は、活字印刷物からネット上へと情報操作を容易かつ大規模に行うことが可能になってきました。
 一方で、イスラームや中東に関して、日本人が持つ一般的なイメージは1980年代頃からほとんど変わっていない。誤った捉え方がむしろ強化されている側面もあります。今後の世界を見通すうえで、研究者が社会に対して負う責任に鑑みれば、何かせねばという思いがありました。日本のイスラーム研究や中東研究のレベル自体は確実に向上してきたわけで、その成果を反映して、社会に向けて収斂して提示するような大型研究をするべきだと考えたのです。

イスラーム信頼学の射程
三浦黒木さんがおっしゃった、社会的なニーズというのはとても重要なことだと思います。(中略)その上で、信頼学やコネクティビティが、一つは研究上、もう一つは社会的なイスラームやイスラーム地域の理解にどうつながるかということでお伺いしたい。黒木さんが、信頼というのは実は「賭け」の面があるということを、このプログラムの皮切りのシンポジウムでおっしゃったときは、すごくいいなと思ったのです。だけど、それは大きな賭けもあれば、日常的な賭けもあるし、賭けと意識しない行為もあるので、どういう場面やレベルをおっしゃっているのかということ、それと、イスラームであれ、中東でもアラブでもいいのですが、そこになにか特徴的なことがあるのだろうかと思いました。
 この図は、座談の準備段階で交わされた四つのキーワード(ネットワーク、ソシアビリテ、コネクティビティ、信頼)について三つの軸で整理を試みたものです。第一の軸として個を起点にして、個を重視するタイプと、集合や社会を重視する立場とがあるのではないか、第二に、実態を問題にする場合と、モデル、形相の方を問題にする場合があるのではないか、そして三つ目の軸として、信頼を成立させるものとして、心理を含めて文化や心の問題というメタフィジカルなファクターと、もう一つ、加藤さんが重視する物質的生活環境というファクターがあります。この図にとらわれず黒木さんが考えるところをおっしゃっていただければと思います。

四つのキーワードと四つの軸(三浦徹作成)


黒木本プロジェクトは比較研究も含みますが、それが中心ではないのです。いろいろな時代・地域から知恵を見つけ出してそれを持ち寄る、という発想です。比較によりイスラーム的なるものを峻別して結晶化させるのではありません。ベクトルは逆で、「これはイスラームに限ることではないですね」「そのとおり、ここにも同じようなものがありますね」という形で、いわばイスラームを梃子にして発掘した知恵を、学的に位置づけ、吟味したうえで、社会に向けて提示したいのです。それではイスラーム研究にならない、というのではなく、そこにこそ意味があると思うのです。
 コネクティビティについては、信頼をつくる場における何らかの関係、それがどのようにつくられ、壊され、修復されるか、という問題です。なのでコネクティビティは「関係づくり」と言い換えられるでしょう。人はただ漫然と関係をつくろうとするのではなく、大なり小なり何かを賭けている。そこでのリスクや果実は何なのかを明らかにしてこそ関係づくりの意味がわかりますよね。この図でいうと、そういう関係づくりの企ては基本的にまず個のレベルから出発し、それが積み重なって集合社会の方に行くわけですが、それでも分析のどこかの段階で個のレベルに下がっていくでしょう。
三浦黒木さんのイスラームの位置づけは、「イスラムの都市性」の成果物である『イスラム都市研究』(1994)や「イスラーム地域研究」の『比較史のアジア』(2004)とも通じていて共感します。他方、私は信頼という賭けが個々にあって、それが全体としてコネクティビティ、集合になるということかと思っていたのです。今の話では、個対個の間にコネクティビティがあって、それが信頼という一つのシステム、集合的なものになるという見方ですか。
黒木個と集団の両方ともです。関係づくりをするときには必ずそこに何らかの信頼をつくることになる。その集積により、信頼が大きな意味で制度化していく局面に移行していくのでしょう。
三浦そうすると、コネクティビティも信頼も、集団、集合のレベルになったときは、たとえば今まで使われていた言葉でいうとコミュニティでしょうか。
黒木それがなかなか難しい。コミュニティに対するいろいろな批判的な見方を、恥ずかしながら私はきちんとフォローしていませんでした。最近になって伊豫谷登士翁さんら3人による『コミュニティを再考する』(平凡社、2013年)を読みました。ただ、それを踏まえたうえで、やはり何らかのコミュニティ的なものをつくろうとする動きを扱う話にはなっていくと思います。

コネクティビティ、ネットワーク、縁
加藤これまでのお二人の討論に関係するであろう、私の考えを述べてみます。私はネットワークという言葉を折につけ使ってきました。それが、社会分析における方法論的個人主義を想起させるからです。ここで、方法論的個人主義とは単純に、個人から出発して、彼/彼女が取り結ぶ社会関係の広がりとして社会を分析する研究姿勢としておきましょう。そして、ネットワークを、知覚あるいは認識できるかどうかはともかく、徹頭徹尾、個人が取り結ぶ現実の社会関係であると考えてきました。
 しかし、私はネットワークという言葉を慣用的に使ってはきましたが、当初からネットワークという言葉から受けるニュアンスを嫌い、可能ならば、ネットワークという言葉を避け、別の言葉に置き換えたいと思っていました。ネットワークという言葉に、量や質の違いを伴わない点と線の「平板な」結びつきを感じていたからです。言葉を換えれば、ネットワークという言葉を使うことによって、個人が取り結ぶ社会関係の複雑性、多様性、不確実性、つまりは歴史性が遠ざけられてしまうと思ったのです。
 つまり、私はどのようなネットワークがあるか、ネットワークによってどのような社会が形成されるか、ということに関心をもっていたのはもちろんですが、同時に、というよりは、それにもまして、そもそもなぜネットワークは存在するのか、個人はなぜ、そしてどういう契機で社会関係を結ぶのか、を説明する概念を求めていたのです。その過程で、20年前に、先の三浦さんの図で言及されている関本さんの二者関係の概念を介して、コネクティビティという単語に出会い、その後は、ネットワークに代わって、コネクティビティを多用してきました。コネクティビティが私にとって意味するところは、抽象的な「関係性そのもの」です。
 突然ですが、こうして意見交換をしている今、コネクティビティよりも、私の思いを伝えることができるかもしれない言葉が頭に浮かびました。それは「縁」です。「縁」はコネクティビティでは感知されない不確実性を内包した言葉だからです。縁は分析できません。「縁」を「出会い」という事件として捉えるならば、分析できると思います。しかし、「出会い」をもたらしたのは「縁」で、「縁」自体を分析の対象にはできないでしょう。せいぜい、確率論的にできるかもしれませんが、その場合には、その「出会い」の確かさを判断するための知識―それは経験によって獲得される―を必要とするでしょう。
黒木今、加藤さんがおっしゃったように、コネクティビティや縁が分析できないというのは、なるほどと思いました。ただ、縁というと、所与のもの、受動的な感じがします。「ご縁がなかったですね」と言われると、予め決まっていたと納得してしまう。そうではなくてコネクティビティは関係をつくろうとする主体的なニュアンスを含んでいます。関係をつくろうとするときの、きっかけづくりや交渉、そしてそれが多方向に向かう時の戦略などです。だから、確かにデータとして分析するのは難しいと思います。でもネットワークが分析可能ならば、ネットワークのそれぞれのノードの結合の仕方に立ち返って、コネクティビティのあり方を想像することが可能ではないでしょうか。
加藤その通りだと思います。ただ、この点について、私見を付け加えさせてください。実は、これまでの黒木さんと三浦さんとの間での、学問の社会性についての熱いやり取りを聞いていて、居心地の悪さを感じていました。私は先に、分析概念としてコネクティビティという言葉を使うようになった経緯を述べましたが、私がコネクティビティという言葉に託した思いは、それによってネットワークという言葉に否応なくまとわりつく具体性を払拭することでした。実は、このことは、社会関係を分析する際に、個人の主体性を消し去ることに通じます。
 黒木さんは私よりも一回りも若いからピンとこないでしょうが、70年代の大学紛争の余波のなかで学生生活を送った私には、当時、知識人の間でもてはやされた実存主義、とりわけサルトルの思想に大きな影響を受けました。サルトルの思想を一言で述べれば、不条理で偶然に支配される世界にあって、時々刻々、「賭け」をしながら生きていくのが人間の存在のあり方だというものです。その「賭け」を、サルトルは「アンガージュマン(投企)」と呼んだ。私もまたご多分にもれず、このアナーキーな思想に染まりました。
 しかし、そのうち、サルトルはマルクス主義に接近するなかで、「投企」という形でしか存在しえないのが人間だという主張から、徐々に、「投企」という形で存在しなければ人間ではないという主張に代わっていく。私の実存主義に対する熱は、急速に冷めていった。人間の過剰な主体性の主張に嫌気がさしたからです。かくて、私もまた、実存主義の後にきた、主体なき思想、つまり構造主義への共感を深めていった。
 ここで私が言いたいこと、それは主体を殺して社会を分析しろということではありません。個人の主体性の発露の結果が、われわれが目にすることができる社会関係であることは間違いありません。しかし、その可視化された社会関係をネットワークという言葉で表現すると、「出会い」の偶然性―私に言わせれば、豊饒性―が薄まり、平板な分析しかできないのではないかと危惧するのです。
黒木:加藤さんの大学紛争世代としてのお言葉ですね。確かに、そうか、実存主義と構造主義かと今、しみじみとうなずいてしまいました。
三浦私が都市研究のときに、ラピダスという研究者の議論を使って、社会全体のモデルをネットワークという形で表現したので、三浦NやLapidus Nは右下にあるのです。それに対して加藤さんが、三浦のネットワークの使い方はおかしいとおっしゃって、ネットワークという言葉で問題にしたいのは、個を重視した個別的な関係の実態であると言うので、加藤Nは左上にあるのです。そして、コネクティビティという言葉をネットワークに代って、より一般化、普遍化された概念として使いたいとおっしゃったので、加藤Cは右上に置きました。いま提示された「縁」という言葉は私には個別的具体的な関係をさすようにみえるのですが、「縁」とコネクティビティとネットワークの異同についてもう少し説明していただけますか。
加藤三浦さんを批判したのは、若気の至りでした。お互い、若かったですね。批判の背景にあったのは、当時、三浦さんがネットワークを分析概念としてイスラム社会の特徴を明らかにしようと悪戦苦闘していたとき、私といえば、先に述べたように、三浦さんとはまったく逆の方向で、ネットワークに代わって社会関係を分析するための概念を求めていたのです。三浦さんのいまの問いかけに対するとりあえずの私の答えは、次のようなものです。
 なぜAとBの個人は縁(コネクティビティ)で結びついたのか。それを分析するのは恐らく不可能です。たとえば、両人が生まれたときからの許嫁であったとしても、それは父・母の縁のためであり、そして父・母の縁は祖父・祖母の縁のためであり・・・と縁には個人を超えた歴史が積み重なっているからです。「縁」は、社会関係をつくりだす、強い不確実性をともなう契機を意味します。しかし、AとBが結びつく蓋然(がいぜん)性は恐らくネットワーク分析でできると思います。そのためには、可視化されたネットワークで結びついた個々人の歴史を徹底的に調べなければなりません。この点において、イスラムのハディース学はすごい。そこでの素材は、ビッグデータのAI分析に適合的だと若い時から思っていました。私自身はITに背を向けたアナログ人間ですがね。

信頼・コネクティビティの分析に向けて
三浦人文学は基本的に個に関心があると私はずっと考えてきました。そして社会科学といわれるのは、その名のとおり集合や社会に関心がある。その場合、個をどう設定するかというと、社会科学における個というのは普遍的な人間だったわけです。極端にいえば属性を捨象する。そういうなかで、この20年ぐらいの間に提示されている二つのトレンドがあって、一つは比較制度分析です。(中略)もう一つはデジタル・ヒューマニティーズですが、個別的な情報を、デジタルデータとコンピュータを使って、もう何百、何千、何万のデータを扱えるわけです。そこから、統計数理の方法を使ってモデルをつくっていくというのがデータサイエンス、あるいはデジタル・ヒューマニティーズのある分野になってきているわけです。私はそれにすごく期待も持っているのですが、場合によっては関係者の属性を捨象してしまうのです。(中略)個別的な情報から、ネットワークという構造にたどりつくその道のりについては、黒木さんや加藤さんはどう考えていらっしゃいますか。
加藤なんとも重い問いかけですね。短時間で答えるのは無理ですが、今、この場で思いついた言葉をつむいでみます。まず、最初に知っていただきたいのは、物質的なものであれ観念的なものであれ、私はそのなかに、一度として「普遍性」を求めたことはないということです。言葉を換えれば、私は起きたことは事実であるが、事実をそのままの形では認識することはできないとする点で、不可知論者です。象をなでる盲人のたとえ通りです。したがって、私にとって方法論は認識論と分かちがたく結びついています。つまり、認識の枠組みと依拠する資料があらかじめ明示的に提示されていれば、テーマであれ資料であれ分析方法であれ、なんでもありの方法論的オポチュニストです。
 ですから、私自身、これまでの研究の大半を、どのような視角からデータ・情報が集められたのか、そして集められたデータ・情報にはどのようなバイアスがかかっているのかを検証する、広義の資料考証に時間を割いてきました。そのなかで、私にもっとも合っていると思ったのが、方法論的個人主義の採用であり、それに適合的なミクロなデータ・情報の収集でした。しかし、ミクロなデータ・情報をやみくもに多く集めればよいというものではないでしょう。「合成の誤謬」という用語があります。経済学の用語で、ミクロなデータは正しくとも、それがマクロな集計値として合成されると、意図せざる結果を生みだすことを意味します。私は、このミクロ分析とマクロ分析の間で生じる矛盾に面白さを感じるのですが、それはともかく、やみくもに集めたミクロなデータ・情報を、統計学的処理を含む資料考証なしに分析すれば、ただやってみた、という結果に終わるのではないかと思います。
 そして、ただやってみた、というだけで終わらないためには、データ・情報に対する資料考証の段階で、分析のスピードを高めるためにも、なんらかのデータ・情報の選別と類型化は必要なのではないかと思うのです。もっとも、IT 技術が発達し、AIがこの選別・類型化自体をやってくれるのかもしれませんが。しかし、それでは、研究者の「主体性」はどこに。何?おまえは先に、「主体」の消失を願ったではないか!何が何だか、自分でも言っていることが分からなくなってきた。ともかく、ここで言いたかったのは、データ・情報の選別と類型化の指針となるのが、三浦さんが目指している社会のモデル化だということです。三浦さんは「個別的な情報から、ネットワークという構造にたどりつくその道のり」と述べられましたが、私に言わせれば、それは「過程」の問題ではなく、ネットワークの束としての社会を知るために、ネットワークの個別的な分析とネットワークを分析概念として磨くこととを、どう「協働」させるかの問題であると思っています。社会を「全体」として知ろうとする試みは、チルチル・ミチルが「青い鳥」を他所に探しに行くようなものですよ。
黒木本プロジェクトは、コネクティビティ分析から出発してネットワーク理論の再検討や新たなモデル構築に至る、という路線を否定するのではなく、もちろんその成果が得られれば素晴らしいと思いますが、そこに収斂するものではないのです。領域名の副題にあるように分断状況をのりこえるための戦略知をどのようにすくい出すか、です。大風呂敷を広げていると思われるかもしれませんが、過去・現在の人々のダイナミックな関係づくりの現場にそのヒントは無限に存在するわけで、そういった素材を収穫し、調理して多くの人たちに吟味してもらうことを目指しています。そのために従来型の文字資料やフィールド調査による研究の方法や新たなデジタル・ヒューマニティーズの手法を可能な限り積極的に組み合わせていきたいですし、そこから個の一回性の現実を十分に踏まえたうえで比較・援用に耐えうるモデルが浮上すればいいですね。

本日は貴重なご意見を多数いただき、どうもありがとうございました。

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