Blog #8 「親密な人間社会とお金をめぐる信頼の形を探究する」

2022.02.16

カテゴリ: イスラーム信頼学ブログ

執筆者: ハシャン アンマール

日本に来てから、もう9年が過ぎました。たくさんの人たちからお世話をいただいて、ずいぶんと日本社会とつきあってきました。毎日、日本語を話して暮らしていますし、知り合いのことはよくわかるような気がすることもありますが、いつまでも不思議に思うこともあります。それは、人間関係がどれほど濃密になっても、日本の皆さんは身体接触をしないということです。私が外国人なので、握手はしてくれますが、見ていると日本人同士は握手もしません。私が生まれたのはシリアの北都アレッポです。人びとは、親しければ親しいほど、がっちりと握手をしたり抱き合ったりと、身体接触が濃厚になります。そして、親しいほど信頼関係も強いものに感じられます。

もちろん、日本でも人間関係が濃厚になって信頼関係が厚くなることは普通にあるでしょうし、ここでは身体接触が信頼関係と結びついていないのも、わかります。ただ、イスラーム社会では、「アッサラーム・アライクム(平和があなたたちの上にありますように)」とあいさつの言葉を言うとともに、しっかりと握手をして、人間関係がスタートします。そういう社会では、空間的な近さも含めた親密性が人間関係の基本で、信頼のあり方も人間関係の空間的な配置と深く結びついています(こういう表現でうまく言えているのか、少し自信はありませんが)。

私が研究しているのは、そのような社会の中で、お金や経済の仕組みにおいて、互いの信頼がどのように働いているかということです。現在は、特に「ワクフ財産」に焦点を当てて、研究をしています。

イスラーム社会では、いろいろな制度が預言者ムハンマドの時代に起源を持っています。ムハンマドという人は、西暦で言うと570年に生まれ、632年になくなりました。「預言者(ナビー)」となのったのは、610年とされていますから、預言者としての活動は22年ほどです。その間に、イスラームを広め、イスラーム社会のあり方をいろいろと決めました。

皆さんはイスラームの聖典が「クルアーン」ということは、ご存じかもしれません。クルアーンはムスリム(イスラーム教徒)にとって「神の言葉」として尊ばれています。ムハンマドは神の言葉を預かる人(預言者)でしたから、クルアーンをまず伝えました。しかし、それだけではありません。ムハンマド自身の言葉もたくさん残されています。それをアラビア語では「ハディース」と呼びます。私はダマスカス大学の大学院で、このハディースをめぐる学問を修めました。今でも、ハディースの中にあるムハンマドの言葉がもとになってイスラームの制度が作られてきたということから、その仕組みの解明に努めています(写真は、私が使っているハディース集です)。

ワクフ財産は、日本語では寄進財産と訳されることもあります。商売でたくさん儲けた人、あるいは大きな農地を持っている人などが、自分の財産を寄付してワクフ財産にします。ワクフ財産とされると、所有権の移転が停止されますので、もう誰のものでもありません。社会全体のものになるわけです。そこから、モスク、市場、橋、学校などの公共財がたくさん作られました。アレッポもそうですが、イスラーム都市には、あちこちに誰もが使える水場があります。それも、ワクフ財産に支えられています。

ハディースには、預言者ムハンマドの言葉として、こう書かれています――「信徒が死んだ後でも、その人の行いや善行として追加されるものとして、彼が教えて広めた知識、彼が遺した有徳の子ども、〔皆が使えるように〕遺したムスハフ〔本の形のクルアーン〕、彼が建てたマスジド〔モスク〕、彼が旅人のために建てた宿、彼が掘った水路、元気に生きている時に自分の財産から彼が払ったサダカ〔喜捨〕があり、それらはその人が死んだ後でも〔報奨の対象として〕追加されます」(イブン・マージャ『スンナ集』)。

これはよく考えると、不思議なことです。イスラームでは生前におこなった良いことや悪いことが、世界の終末が来た後の復活の日に神によって裁かれると教えられています。死ぬと、良いことも悪いこともできませんので、裁かれるのは死ぬまでのおこないなのです。ところが、このハディースでは例外があるというのです。それは、死んだ後でも良い効果が続くような行為のことです。本を書けば、著者が死んだ後もその知識は他の人を豊かにします。マスジドを建てれば、その人が死んだ後も、たくさんの人たちが礼拝をすることができます。宿を建てれば、旅人たちが助かります。水路があれば、農地でも都市でも生活に役立ちます。

イスラーム世界では、このハディースを聞いて、たくさんの人たちが財産を差し出して、ワクフ財産にしてきました。財産を社会のために使うことが、来世では自分のためになる、というのです。他の人が自分の寄付したものを喜んで使ってくれることが自分のためになる、というのは、信頼関係を生み出す人間関係のモトダネではないでしょうか。また、ビジネスで成功してお金持ちになった人が社会に役立つ良いことをしようとすることも、社会の中での信頼を生むように思います。

今の時代は、どこでも、自分のお金が大事という風潮が強くあります。残念なことに、ムスリム社会でも、欧米の影響もあるのか、そういう風潮が強まっています。しかし、それに対して、ワクフ財産を再活性化させて、信頼に基づく経済を復活させようという動きもさかんになっています。

ワクフ財産の復興という場合、現代では、道路脇に水場を作る話はありません。良くも悪くも、貨幣経済が浸透していますから、社会福祉もそれを前提に考える必要があります。さらに、デジタル化が進んでいる現在、大きな話題となっているのは、イスラーム・フィンテックです。フィンテック(金融技術)とは、インターネットやIT技術を金融に用いる業界用語ですが、イスラームのフィンテックは、それをワクフ財産などの仕組みに当てはめて活用するものです。つまり、イスラームの価値観や倫理観に基づき、イスラーム法学の原則を用いて、世界中のイスラーム社会のためのソリューションを生み出す、新しいタイプのフィンテックです。

ワクフ財産という、いかにも伝統的な制度と、デジタル化やフィンテックという最先端のものを合わせた研究テーマには、わくわくするような面白い話題がたくさん詰まっています。

古都アレッポの有名なスーク(市場)。筆者も若い頃、親戚が経営しているスークの店を手伝っていた。

左から、イブン・マージャ編の「スンナ集」、ティルミズィー編の「大集成」、ムスリム編の「真正集」(ここのムスリムは人名)。

 
ワクフを管理する省庁や団体も各国にある。左はインドネシア、右はヨルダンである。

世界中で広がっているDX(デジタルトランスフォーメーション)は、イスラーム圏でも盛んになっている。

執筆者プロフィール

ハシャン アンマール(Khashan Ammar)

立命館大学立命館アジア・日本研究機構・准教授

1983年アレッポ(シリア)生まれ。2004年ダマスカス大学イスラーム法学部卒業、2008年同大学院修士課程修了(ハディース学)、2017年京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科修了、博士(地域研究)。専門:地域研究、イスラーム法学、ハディース学。京都大学、同志社大学、龍谷大学の講師等を経て、現在、立命館大学立命館アジア・日本研究機構准教授。著書に『イスラーム経済の原像:ムハンマド時代の法規定形成から現代の革新まで』(ナカニシヤ出版、2022年2月)など。

ひとこと

西暦7~10世紀くらいの時代を対象としたハディースの研究と、現代のイスラーム経済の研究を合わせてするのは、とても刺激的だと思います。デジタル・デバイスも多用しています。自分のことを、14世紀の歴史の中を往復する「時の旅人」と思うことがあります。

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