イスラームからつなぐ2『貨幣・所有・市場のモビリティ』合評会ウェブ報告

2025.03.25

カテゴリ: 出版

『比較史のアジア』(2004年)から20年の時を経て、その研究の論題やスタイルを援用した『貨幣・所有・市場のモビリティ』(イスラームからつなぐ2、2024年)が刊行された(本書についてはこちらを参照)。本合評会は、両書の編者・執筆者が集まって意見交換を行い、イスラーム(的)経済の「モビリティ(コネクティビティ、フレキシビリティ、ユニバーサリティ)」の諸相と全体像、そして今後の研究の可能性を議論することを目的とした。『比較史のアジア』執筆者3名の提案を受け、『貨幣・所有・市場のモビリティ』の編者・執筆者の賛同をえて、京都で開催された。

 

日時:2025年2月19日 13~16時

場所:京都大学東南アジア地域研究研究所

出席者(発言順):三浦徹、岸本美緒、加藤博(『比較史のアジア』執筆者)、長岡慎介、亀谷学、平野(野元)美佐、荒井悠太、五十嵐大介、岩﨑葉子、町北朋洋、小茄子川歩、安田慎、長岡慎介(『貨幣・所有・市場のモビリティ』の執筆者)、黒木英充(領域代表)、ハシャン・アンマール(公募研究代表、立命館アジア・日本研究機構)、井黒忍(中国史)

主催:文部科学省科学研究費補助金(学術変革領域研究(A)計画研究、課題番号20H05824)「イスラーム経済のモビリティと普遍性」

 

1.『比較史のアジア』からの批評

3名の評者は、事前に質問とコメントを執筆者に送り、当日は要点を述べた。

 

1.1三浦徹(同編者、アラブ・イスラーム史・都市研究) 資料1_三浦徹_発表スライド(PDF)

・「比較史のアジア」(比較史の可能性研究会)のねらいは、アジア(中東、中国、東南アジア)を対象とし、3角形の比較を通じて、「原理的比較」(異同の理由の考察、下図)を行うことにあった(下図参照)。当時は案内やレジュメ等を印刷・郵送して研究会を運営し、それらを年度末にまとめ、冊子による報告書「活動の記録」を刊行した(1999-2001年度)。20年を経て、刊行された本書(モビリティ)は、いわば子どもか兄弟姉妹のようなもので、研究の進展に大いに刺激を受けた。

・『比較史のアジア』以降、「歴史的アーカイブズ」(国文学研究資料館)、「法が生まれるとき」(京都大学)、「寄進donation」「契約と訴訟」(東洋文庫)などの地域間比較の研究プログラムに関わった(スライドの参考文献参照)。この間に、岸本さんは「差序(人倫)」にもとづく中国の社会類型を提示し(上図は三浦が作成)、イスラーム地域や西欧との比較を意識した、中国社会論を発表した。

・『比較史のアジア』と『モビリティ』の書名や目次を比べると、前者の4つのトピックのうち、「契約」と「公正」が消え、「貨幣」が加わった。また、比較のキーワードとして、コネクティビティ(他地域・他時代の制度をどんどん取り込む)、フレキシビリティ(るつぼのように一貫したシステムに仕立て上げる)、モビリティ(さまざまな制度とつながり/コネクティビティ、それを融通無碍に吸収・融合する/フレキシビリティ、そのダイナミズム)、ユニバーサリティ(普遍応用性がある)、の4つが掲げられている。個々の論文へのコメントは、資料1を参照。

 

1.2 岸本美緒(同編者、中国明清史) 資料2_岸本美緒_発表資料(PDF)

大きなポイントとして2つの問題を提起した。第1は、本書のなかで、「資本主義」の意味はどのように捉えられているのか(資料2 p.2参照)、「資本主義のオルタナティブ」という問題意識はどのように共有されているのか。 第2は、コネクティビティ、フレキシビリティ、ユニバーサリティ等のキーワードは、どのように生かされているのか、である。

総論(長岡)について:資本主義の弊害はどの面にあり、いつ生じたのか。合理的経済人という前提はどういうものと考えているか。

2章平野論文:資本主義経済でもウィンウィンでないと取引は続いていかないが、頼母子講の違いはどこにあるのか。

3章長岡論文:格差や貧困の是正という課題に対して、国家の役割にほとんど期待してていないようにみえるが、その理解でよいか。

4章荒井論文:イブン・ハルドゥーンの議論では国家を経済単位としてモデル化しているが、イスラーム経済の広域性との関係はどう議論されているのか。

5章岩﨑論文:本書全体ではイスラーム的特質による資本主義の克服が目指されているが、本章は「イランの実態に根ざした一定の合理性」で説明され、そこには方向の違いがあるのか。イラン社会の本質とは、どういうものか。

7章町北論文:グライフの商人類型の二分論(およびそれに対する、トリヴェッラートの批判)に対して、イスラーム経済の専門家はどうみているのか。バングラデシュの縫製業におけるスポット取引と関係的取引の利益率について、岩﨑論文との比較を聞きたい。

8章小茄子川論文:資本主義のオルタナティブとされているのは、市場の影響力から自らを守ろうとする「共同体」の秩序という理解でよいか。

9章安田論文:個別の相対交渉を通じて取引が行われるという点からみて、原洋之介のいう「バザール経済」(交渉しながら経済が動いていく)と通底する点があるのか。

10章長岡論文:モラル・エコノミー論やスミスの経済秩序形成論は、地域的限定と関わって論じられてきたが、広域性を特徴とするイスラーム的モラル・エコノミー論の立場からはどうみえるか。

第2点:キーワードについて

①コネクティビティ 

本書ではメタレベルで語られる場合が多いが、安田論文のイジャーラ取引のように具体的な取引のあり方の特徴として、レベルの違うところで使われている場合もある。「イスラムの都市性」(重点領域研究、1988-90年度)のときのネットワークとの異同は?

②フレキシビリティ

イスラームの理念を柔軟に適用して様々な制度を正当化するロジックを作り出すという点で、イスラーム特有のものと考えているのか。イスラームでは、クルアーンをはじめ動かしがたい規範があって、それにフレキシブルにあわせていく必要があるため、フレキシビリティが逆説的に必要になると考えてよいか。日本の場合、外国のものをそのまま取り入れている、これはフレキシビリティとはいわないのか。

③ユニバーサリティ

単にある地域の制度が他地域まで広まるというだけでなく、それを支える文化的理念と切り離されて純粋に技術的なものとして広まる、という意味でよいか。政治的支配も文化的理念も伴わずに広まることか。ムダーラバのような制度が、他地域で自生的に生まれる場合、それはイスラーム経済のユニバーサリティとどのような関係にあるか。

④柔軟さ、開放性、普遍性を意味するこれらの語をキーワードとすることによって、硬い本質主義的な類型論に陥ることを免れているが、一方で「何がイスラーム的なのか」がわかりづらくなっているのではないか。イスラームの特色はこの3つが突出して高いことにあると考えてよいのか。

⑤「イスラムの都市性」研究で、イスラームの合理主義、個人主義、普遍主義が強調されていた背景には、オリエンタリズムへの対抗意識があったが、それはいまはどうなっているのか。

伝統中国経済秩序の「自由」さは、保障された自由というより放任された自由であり、リスクの克服のため、血縁などを通じたパーソナルな私的秩序形成が行われやすい。自由競争的開放的環境の一方で「信頼」の範囲が狭い人間関係に限定されるという一見閉鎖的な相貌を呈する。自由、開放、柔軟、包容といった点でイスラーム経済と共通する性格の一方で、「信頼」のあり方には違いがあるというべきか。

⑥原理的比較の今後の見通しをうかがいたい。また、本書の比較の方法で、「ボール」とはなにを指すのか。

 

1.3 加藤博(社会経済史、エジプト近現代史)資料3_加藤博_発表スライド(PDF)

私のコメントは二部からなる。第1部ではコメントの背景となっている私の問題関心を、第二部ではその問題関心に基づく『イスラーム信頼学モビリティ』論文集に収録された各論文についてのコメントと質問を述べる。まず、第1部。

1.この合評会に臨む私のスタンス

次の二つ。1)『比較史のアジア』との連続性のうえで、『イスラーム信頼学』論文集をコメントする。私は『比較史のアジア』の編者ではないが、そこから多くのことを学んだ。とりわけ編者の一人、関本照夫さんから二者関係論を学んだ。2)主として、貨幣に関係するコメントをする。『イスラーム信頼学』論文集において新たにキーワードとして貨幣が取り上げられ、また、私が大学院生時代から貨幣に興味を持ってきたからである。

2.『比較史のアジア』論文集から私が受け取ったメッセージ

次の二つ。1)「比較」の効用。個人的には、比較の効用は、悪しき歴史主義から逃れるための一つの手段だと考えている。2)アジアからの視角。これは、人文社会科学、とりわけ社会科学におけるユーロセントリズムからいかに脱却するかの問題である。

3.『比較史のアジア』論文集と『イスラーム信頼学』論文集の変化

『比較史のアジア』論文集でのタイトルにあるキーワード「契約」「公正」が消え、それに代わって、「貨幣」が取り上げられた。1)「契約」「公正」が消えた結果、少し残念なことに、イスラーム文明とほかの文化・文明との比較の視点が薄くなったように感じられた。2)貨幣を取り上げることにより、社会経済史分析においてダイナミックな要素が加えられた。その結果、市場経済と資本主義経済についての多角的な考察への道が拓かれた。

ここで注意したいことは、貨幣は、交換の手段であり、交換の主体でもあるという両義性をもつこと。ヒックスが述べるように、市場経済は、取引そのものが法の保護や整備を必要とするような、パラドクスを抱えている、市場は内生的に自らを変化させる要因をもたない。これに対して、貨幣は、交換の手段として、市場の拡大をもたらすだけでなく、能動的に市場や社会の均衡を作り出すとともに、市場の均衡を破壊する、ウロブロスの輪(自分の尾っぽをのみこんでいる蛇)、となる。社会経済史にダイナミックな要素を持ち込み、貨幣のない社会において変化は可能なのか、という問いをもつ。

4.『比較史のアジア』から私が引き継ごうと考えたテーマ

市場や社会における秩序の問題。秩序は「信頼」と深く関係する。秩序の問題の重要性については、すでに『比較史のアジア』序「原理的比較の試み」のなかで三浦さんが、「より原理的レベル」を「文化・社会秩序」と言い換えることで示唆しており、さらに岸本さんによって論じるべき具体的なテーマと論理の道すじが、中国社会経済史の文脈で提案されている。

以上、私のコメントの背景になっている問題関心を整理した。そのうえで、第2部において、『イスラーム信頼学』論文集に収録された論文へのコメントを述べる(資料3を参照)。ただし、編者の長岡さんの論文(総論、第1部第3章、第3部第10章)については、先に岸本さんが詳細なコメントを述べており、私のコメントは岸本さんのコメントとほぼ重複するので、ここではコメントすることを控える。

 

2.執筆者からの返答

発言は、第1~10章の順とし、総論と各論2本を執筆した編者長岡さんを最後とした。

2.1亀谷学「なにが新たな貨幣を生み出すのか―中世イスラーム世界における貨幣とその変容」:

加藤さんのコメントにある「市場と貨幣」という問題については当然扱うべきものとして考えてはいるが、イスラーム世界における貨幣史自体の基礎的な研究が思った以上に進んでいないという状況で、自身が近年はもっぱら資料としての貨幣ということを扱ってきたこともあり、寄稿した論考ではイスラーム史における貨幣の基礎的な情報に終始することになってしまった。そのような状況についての説明をもう少し書き込むべきだったと思う。一方で、空中戦をするよりは具体的な貨幣史の流れに基づきつつ、貨幣の秤量化と計数化という、貨幣が実際にどのように使われていたのかの一角をなす議論に焦点をおいて論じてみたということになる。三浦コメントの、貨幣の種類については、自分でもアラビア語パピルス文書の中の用例から貨幣の使い分けについて考えたことがあるが、税金の支払いなどを中心に使い分けが明らかな場合も見られるが、市場での使用と見られるものについては単純に分けることは難しい。また、本全体に関わるコンセプト・ワークについては、長岡さんに依存しすぎたという反省がある。

 

2.2平野(野元)美佐「貨幣を合わせて贈与する―沖縄とカメルーンにおける頼母子講のモビリティ」: 

相互扶助と資本主義が、頼母子講では結びついているが、資本主義の定義はしていなかった。岸本さんの「資本主義まとめ」での、にあるように、資本主義にはプラス面もマイナス面もある。頼母子講は資本をつくるもの。カメルーンのトンチンは、資本を集めて商売に利用する、それはよいこととされ、みんなで貨幣を飼い馴らしている。一方、マイナスの資本主義もあって、それにも加担している。悪用して金儲けをするひともでてくる。日本の頼母子講や沖縄の模合も搾取に使われてきたこともあり、プラスにもマイナスにもふれうる。相互扶助の精神も同様に、プラスだけでなくマイナスに作用することもある。右図のとおり、右左にも上下にも作用するが、論文ではプラス面のみを扱ってしまった。加藤さんのご指摘のとおり、自他や自己、資本主義的か相互扶助的かの二項対立で考えるのは研究者の分析であり、本人たちは、利己利他がないまぜになっていている。そういった部分を今後はとりいれたい。

2.3荒井悠太「前近代イスラーム社会思想にみる経済生活―イブン・ハルドゥーン『歴史序説』における経済モデルと歴史」:

中世という時代に書かれた経済論を、どう扱ったらよいのか、苦心した。歴史序説という本を、そこから経済的知見が得られるかどうか、拡張しうるかどうか、を考えた。概説+試論程度にとどまっている。たくさんの先行研究があり、その動向の変化も扱った。

イブン・ハルドゥーンの思想がイスラーム的かという問いは過去頻繁に論じられてきたが、何をもってイスラーム的とするかによってその回答は異なる。イスラーム(的)経済Islamic economyの場合、イスラーム的(Islamic)とは、シャリーアの規範を重視する経済という側面が強調されている印象を受けるが、歴史研究では、Islamizedという用語が近年より使用されるようになってきており、これはシャリーア的というより、文化的・歴史的にイスラーム化された、といったより漠然としたニュアンスである。彼の思想はイスラーム的(Islamized)だが、厳密にシャリーア的(sharʻī)と評することは妥当ではない。

彼の理論が「アラブ・イスラーム社会」の理念型か、という点も容易には答え難い。そもそも、彼が生きた中世のマグリブ社会はアラブ化・イスラーム化の途上であり、社会がどれほどアラブ的・イスラーム的に変容していたかを考慮する必要がある。また『実例の書』のような歴史書は法学書とは関心の所在も異なり、イブン・ハルドゥーンは法・制度への関心は少ない。

『歴史序説』の経済論そのものは完結したサイクルをなしている一方で、賃金やワクフや不労所得など、実社会に存在する多くの要素が欠落していたり、概念化されていない。このことは、彼の経済論が純粋に経験的・観察的ではなく、社会の在り様を忠実に描写したものではないことを示唆している。したがって彼の経済論が何を目的とし、何を描こうとしていたかを考慮する必要がある。

『実例の書』が記述しようとしているのは、人類を構成する諸民族の通史であるといえる。イスラーム社会の記述に宛てられた部分は、普遍史に対する個別史、人類史全体に対する部分的な構成要素といえる。

 

2.4五十嵐大介「新たな経済が生まれるとき―中世エジプトのワクフ経済」:

コンセプトは長岡さんにおんぶしてしまって、提示されたものにそって考え、さらに深めることができなかった。ワクフが資本主義のオルタナティブかどうか、自分の論考では議論できなかった。近代には、ワクフが資本主義を阻害する悪玉になったりしたが、ワクフそのものは経済制度ではない。p.126 に書いたように、ワクフ制度がどのように用いられたかは、ワクフ制度そのものに内在する性格や仕組みに起因するというよりは、それを必要とした社会それ自体に因っていることであり、どのような政治的社会的状況で、ここではマムルーク朝で果たした役割を示したかった。長岡さんにこのプロジェクトに誘われたとき、実証史家には、それを踏み出して大きなことを語ってほしい、といわれたので、責任を果たしていないのかもしれない。

ワクフ経済が「新しく」生まれたといえるかというと、そうは言えない。元のタイトルは「中世エジプトのワクフ経済」だった。

三浦:ワクフが、15世紀に新しい経済効果をもった、ということですね。

 

2.5岩﨑葉子「低組織化」システムと市場―現代イランが見るもうひとつの解」:

イラン社会の本質はなにか、低組織化社会は成長するのかという評者からの質問について。私の章で資本主義そのものを論じなかったのは、大きなストーリーを論じることが得意ではないから。とはいえ根底には現代の経済学や経営学における資本主義論、企業論を仮想敵としたい気持ちはある。経済学や経営学では「こうすれば企業は市場で勝ち残れる」式の議論が趨勢で、その力のある強く大きな企業に焦点が当たる。そもそも多くの論者が経済発展や経済成長を良しとし、そこに中心的な関心があるので無理もない。その立場からはイランの企業は同国の政情や国際情勢の制約によって成長を阻まれているというのが、おそらくは「通常」の解説になる。しかしその種の議論はイランの実情に今一つそぐわないと感じる。私自身はイラン企業はそもそも現代資本主義の土俵にのっていないのではないか、という仮説を持っている。本章を書いたことが一つのきっかけとなって、実はある構想(問題へのアプローチ法)を思いついたが、今日はまだご報告できる段階にない。将来的に何らかのオルタナティブを示すことができればと思っているが、未知数である。

イランの低組織化システムは、イスラームと直接関係はないが、イラン社会が元々もっている、企業体は何を重視し、どんなシステムを形作るべきかという経済倫理(?)をイスラーム的なものが後押しする、という面があるのではないか。

 

2.6町北朋洋「関係的取引の比較制度分析―信頼と連結性の視点から」:

私の執筆した章で紹介したグライフの議論は、マグリブ商人は人の支配、ジェノヴァ商人は法の支配であるという単純化によって、議論を鮮明にした。現代に引きつけて考えると前者が途上国、後者が先進国、という単純化である。一方、トリヴェッラートは、こうした単純化を離れ、無限責任パートナーシップという形態を、イタリアのリヴォルノの事例研究で示した。

契約が、本書のキーワードから消えたが、私の章では「関係的取引」という現象に注目して、これを議論した。「関係的取引」とは、関係的契約に基づく取引、平たく言うと口約束による取引のことで、フォーマルな契約を結ばなくても、インフォーマルな形での取引のこと。これは、あちこちに観られるため、本章では、経済成長と(関係的)契約をトラストによって結びつけた議論を行った。今日よりも明日が良くなるという長期の経済成長への期待がトラストをつくり、今日の契約に戻ってくる。このことが、フォーマルなもの、インフォーマルなものも含め、今日から将来にかけての取引を強化する。ここでいうトラストは、「信頼学」でいうトラストで、インフォーマルな取引であっても、続けていこう、というモチベーションのこと。このロジックによると、経済成長を否定するとトラストも崩れていく、そういう論点を提示したいと思った。最後に、関係的取引がシステム全体の中でどういう位置を占めるかという質問は難問で、近年、特定の事例に注目した実証研究や理論研究が多く積み重ねられており、今後も考えてゆきたい。

加藤:昔、イタリア都市史の清水廣一郎さんとイスラーム史の佐藤次高さんとが論争(?)をした。しかし、議論はかみ合わなかった。イスラーム史研究者は前近代のイスラーム社会での商業の繁栄を主張したが、それに対して、清水さんは継続的で広範囲な取引には精緻な帳簿の類が不可欠であると思われるが、イスラーム社会にはそれがないという、なぜか、と問い、佐藤さんたちは、少々苦し紛れにイスラーム商人は記憶力がよかったから、と返答した。しかし、町北さんがいうように、イスラーム社会における商取引でもルールがあったはずで、(帳簿があるかないかの)現象にこだわった議論ではなく、今後、システム論的な議論をする必要があろう。

 

2.7小茄子川歩「国家なきインダス文明社会における「市場」とモラル、およびそのスケールについて」:

なぜ、インダス文明か。資本主義や国家以前の、イスラーム以前における「社会編成の形態(フォルム)」(社会を心的現象を含めた具体的な総体性としてとらえるマルセル・モースの用語である「形態(forme)」を参照し、「社会編成の形態(フォルム)」とした)を人類史から拾い上げて、イスラームの「社会編成の形態(フォルム)」にぶつけること、を意図した。

文明の基礎を「移動」や「交流」におくモースは、各地・時代に生きた人びとをつなぐ、一つひとつの社会が蓄積した多様な財や知、価値(モースがいう財や知には価値も含まれるだろう)の広域の流動システムを、超社会的なシステムとしての「文明現象」と呼んだ。私たちはそうした地球的「状況」において、さまざまな「社会編成の形態(フォルム)」をみることができる。それは、人類のある時点・都度の、さまざまなパターンの「政治」的な借用の拒絶によって、いろいろな内容の「文明現象」が姿形を変え、ボトムアップ式に創られたさまざまな「社会編成の形態(フォルム)」として現れるからである。そうして「政治」的に創りだされた「社会編成の形態(フォルム)」こそが、モースがいうところの「文明の形態」であり、すなわち「文明」である。その「文明」は衝突しない。

バッファという概念:数学(マス)が暴力と結託しやすい「量的等価原理」へと転倒しはじめたかのような社会経済システムに基づいていた当時の南メソポタミアと、数学(マス)も平準化・平等原理として機能する「質的等価原理」から構造化される社会経済システムに基づいていたインダス平原のあいだで、「文明現象」の借用の拒絶がおこる。インダス平原に展開したインダス文明には、どこまでいっても、権力、暴力、支配の構造が出てこない、それはなぜなのか? 両者のあいだに、「初期都市(モヘンジョダロ)」が創られる。この「初期都市」では「量的等価原理⇆質的等価原理」という価値転換がなされたものと考えられるが、この価値転換の場をバッファとして捉えた。バッファとしての初期都市で、南メソポタミア発の権力、暴力、支配と結託しやすい「量的等価原理」が、平準化・平等原理としての「質的等価原理」に転換されるからこそ、インダス文明に権力、暴力、支配の構造を見いだせないのである。

資本主義のオルタナティブ(岸本質問)は、バッファシステムにこそ、そのヒントがある。

新しい「文明」論でみていけば、「貨幣」論や、文明の衝突についても正しく議論できるだろう。「文明」の発現型の一つであるバッファを今後、議論していきたい。

2.8安田慎「市場が開示するモラル・コミュニケーション―イスラミック・ツーリズムにおけるコネクティビティ」:

自分は、バザール経済を明示的には提示していないが、類似性はある。観光では、売る側も買う側も消費するまでわからない、摺り合わせ、ミクロなコミュニケーションが重要となる。今回は制度論であり、実態はこれからの課題になる。「草の根」という言い方がよいかどうかはあるが、二者間の関係が鍵になる。

イジャーラ形式の積み重ねに関心があり、イスラーム金融がそれゆえに金を出すことがある。

コネクティビティのスケールが、他の論文とはちがっている。長岡さんの議論は、より大きなスケールで考えている。観光商品を消費する人びとは、自分の足元で消費するものが、大きなシステムにつながっていく、という面がある。

旅行積立は、ボトムアップ的なものと考える。ハラール認証制度は、グローバルでトップダウンのやり方をしていて、両者があって、出来上がっていく。他方で、小さなモラルがあるのかどうかは、想定していなかった、日常生活の慣行の積み重ねのうえに、いろんなシステムができていく、と考えている。

実態のところがまだ見れていない、旅行会社の現場での意識や議論については、今後の課題としたい。

 

2.9長岡慎介「経済制度のモビリティとイスラーム」「イスラーム経済はいかに資本主義と対峙してきたのか」「イスラーム経済とポスト資本主義―現代ワクフの再生が作り出す新しいモラル・エコノミー」:

  • ①編者としては、資本主義、市場経済の定義はしなかったが、近代西洋が生みだした、あらゆるものを市場を通じて取引し、利潤を重ねていって、飽くなき経済成長を追求する、というもの、それが商人資本主義は、地理的な価値の差異をつかって稼ぐとか、産業資本主義では、都市と農村の賃金の差異をつかって稼ぐとか、いろんな形骸があった。20世紀後半からは、金融資本主義という、時間の差異をつかって稼ぎ出す、というものが現れた。実態のないものにもとづいて利潤を求めていくという隘路にはまり、2008年の金融危機に行き着いた。資本主義は必然的にそういう実態のない所に行き着くわけだが、それをどう乗りこえていくのか、というのがこの本の課題だった。
  • ②「イスラムの都市性」プロジェクト(同イスラム経済班)では、合理的経済人を前提にしていたわけだが、自分も、人間の効用や利潤を最大化するという合理的経済人の行動原理を前提に考えている。そのうえで、イスラーム経済の独自性を、モビリティと考えた(全員の共有ではないが)。イスラームないし中東の特殊論というのがいまでも、欧米を中心にあるので、経済学者の理解をうるには、経済学の前提をあまりずらしたくない。加藤さん、三浦さんから利己と利他の二分論への疑問が出されているが、経済学ではセルフ・インタレストというのは大きな前提なので、それをキープして議論したい、と考える。経済学者が共有できるものがあるので読んでみようと思えるものにしたかった。
  • ③モラル・エコノミーについて。近年、「利他」の概念が様々なところで注目を集めているが、例えば、互恵的利他主義やピーター・シンガーの効果的な利他主義(人助けの効率性を重視する考え方)といったものは、すべてミクロな二者間関係(バイラテラルな関係)にもとづく信頼に依拠している。他方、イスラームでは、大きな規範、つまり、ホーリスティックなもの(つまり、イスラーム法体系)があり、私がこの本で利己的利他にもとづくモラル・エコノミーと呼んだものはそうしたマクロな関係性にもとづく信頼にもとづいていて、バイラテラルな利己利他論とは違う。他方で、信仰といったホーリスティックな前提をおくと、イスラームと関わらない地域では、「そんな利己的利他の実践なんて無理でしょう」となるので、ホーリスティックなものへの信頼がない(あるいは薄い)地域でも利己的利他が成立するようにはどうしたよいかという点を議論したかった。安田さんのサービス・イジャーラは、バイラテラルなモラル・コミュニケーションを重ねることでマクロなモラル・エコノミーにつながり、イスラーム的なものを普遍化した議論につながると思った。
  • ④パターンを分類して共通性を見つけるのは今後の課題だが、イスラーム経済の顔のみえる金貸しの関係や非集権的な水平的金融システム、岩﨑さんの低成長社会、小茄子川さんの亜周辺概念とか、安田さんの「バザール経済」とか、そういった概念がパターンを分類して共通性を見るけるためのコア概念に措定してみて、イスラームの経済と他地域の経済制度と似ているところを発見していきたい。総論で展開したボールの比喩の具体例として、利益と損失をともにする顔のみえるシステム(もっと専門的にいえばエクイティ・ファイナンス)がボール、イスラームではムダーラバ、西洋では株式会社、モンゴルではオルトク、中国では合股、形をかえて存在するように共通性をべースとしてパターン化して原理的比較が可能なのではないか。近江商人の三方よし、とか、澁澤栄一の道徳経済合一、といったもの、埋もれていった経済知を、イスラーム経済知を触媒として再発見する、共通性や独自性のパターンを考えていく、そうやって資本主義のオルタナティブをつくりだそうよ、ということ。イスラームがエライということではなく、協働の拠点をつくりだそうよ、という趣旨で、総論と第10章を書いた。

 

総合討論の時間がなくなったため、以下補足の質疑を行った。

井黒忍(中国史):

水利権の比較研究をやってきて、これから論集を執筆するところ。比較について、どういう作業によってやったか? この本でどう表現したのか? この先はどうするのか? 読者に比較を任せるというタイプの本も多いので、うかがいたい。

長岡:これだけの人数なので、がっちりやったわけではない。コロナもあったので、課題を決め打ちで設定した。オンライン読書会で20数冊を一緒に読んだが、3年目には原稿を書かざるをえなかった。

長岡:国家のことがでてこなかったという指摘については、この本では国家を意図的に裏テーマにした。ピエール・クラストルの『国家に抗する社会』という本がある。共産主義では常に国家の存在や役割が大きなイシューだが、この本ではクラストルやそれをベースとして今流行しているアナーキズムの潮流の中で、国家に頼らない(抗する)オルタナティブをイスラームから考えたかった。秩序について議論できなかったのは残念だが、上からの担保がなくても秩序が形作られないか、イスラーム世界では宗教が上からの担保になるわけだが、そうした上からの担保がなくても(これを脱宗教化と私は呼んでいるが)、イスラームの知恵を上からでない秩序形成に使えないかということを考えてみたかった。

今後の計画としては、日本、中国、ヨーロッパを含めて、もっとちゃんとした、「比較史のアジア」の後継版を作りたい。

三浦:「比較史のアジアは、「イスラーム地域研究」というプログラムのもので、イスラームを前面に出さざるをえなかったが、それを相対化するために、「比較」という手法を提示した。黒木さんは、イスラームとはなにか、という問いかけではなく、イスラーム世界で起きていることを梃子にして、そういうものは他にもあるよね、と議論しようと書いている。この本は、まさにそれで、貨幣・所有・市場に起きていることをみて、モビリティやユニバーサリティを見つけていく、これは、良い意味で社会科学的な研究だと思う。今後の方向も、この問題をやるにはこの地域を扱おうとやっていけば、フラットな地域間比較ではなく、いい意味のダイナミックな比較研究ができるのではないか。

黒木英充:

国家の問題は、自分も気になっていた。今後のこととして、貿易を扱ってはどうか。オスマン帝国の低関税は先進的なものだった、文明圏における国家の接触の問題として。第二に、AIの問題がある。イスラームが人間の経済であることの根源に関わっていて、フィンテックの問題は扱われているが、この点を深めてほしい。

 

3.総評(まとめ)

質疑・対話を通じて、以下のことが了解・提言された(以下文責三浦)。

・本書のねらいは、①現代(金融)資本主義のオルタナティブを、②イスラーム経済のモビリティから提示することにあり、②の具体例は、ムダーラバ(合資制度)であり、その理念は現代のイスラーム金融の③モラル(無/低利子、非匿名性、分権性)に通じ、④イスラーム/ムスリムに限定されず広く利用されうる「普遍性」をもっている、と観る。

・本書がいう「イスラーム経済」とは、イスラーム地域で発達した経済制度ではあるが、それは必ずしも、宗教・法としての「イスラーム」から直接的演繹的に導きだされるものではなく、また他の地域にみられる制度や規範とも共通点をもつ。本書で扱われる「頼母子講」(沖縄、カメルーン)、「関係的取引」(バングラデシュ、ドイツ・・・)、「低組織化市場」(イラン)、初期都市(モヘンジョダロ)、旅行ファイナンス(現代イスラーム地域)は、(歴史的な)イスラーム経済と共通する特性や③モラルをもつ制度として、提示されている。

・それでは、③の特性をもつ経済制度(Y)を作り出す要因(X)は、なにか? 頼母子講については「相互扶助の倫理」が、イランの低組織化市場については「利益の平準化とレジリエンス」が、関係的取引については(信頼にもとづく)「利益(率)」が、提示されている。これらは、双方の利益(ウィン・ウィンの関係)、あるいはその信頼(賭け)か。

・「双方の利益」を支えるメンタリティとして、(長岡さんは)「利他的利己」という概念(心性)を提示した。これは、近代(ミクロ)経済学が措定する「合理的経済人」(自己の利益を最大化するように行動する個人)を改造したモデルであるが、自・他という二分法を前提にしており、(岸本さんが提示する)中国の同心円的に広がる自己、や、日本/仏教の「自即他(自と他がひとつになる)」ところに利他が生まれるといったモデルも提示されている(中島岳志、平岡聡の著作)。長岡さんは、近江商人の「三方よし」というモラルに着目しているが、(ヒンドゥーやアフリカなどの地域も視野にい入れた場合の)、利他と利己の関係のモデル(パターン)を、心性を含めて検討することが期待される。

・他方、近代以前のイスラーム地域の経済制度(貨幣、労働と利得/経済変動、ワクフ)の論文では、イスラーム的なあるいは普遍性の側面より、(五十嵐さんが述べるように)、それぞれの制度と(それを使用する)特定の社会との関係が論じられている。貨幣については、多種多様な貨幣が製造され、計数貨幣あるいは秤量貨幣として流通していたが、どれを選好し信用するか(信用されたか)という基準/理由は一律には見出しがたい。加藤さんは、貨幣は交換の手段であるだけでなく、市場や社会の秩序を作り出す(あるいは破壊する)主体であったと述べるが、イスラーム地域の貨幣に即して、どのようにすれば、このような側面の検討ができるのだろうか。ワクフについては、15世紀以降、寄進者がワクフ(寄進)財からの利益を受け取り、また管財人として受益・経営することが法理上でも認められ、ワクフが流行し、経済に占めるウエイトが拡大した。ワクフ財に限らず、私有財においても、都市でも農村でも、その使用利益(マンファア)が経済取引の主体となっていった。このような不動産の賃貸取引は、中国や日本にも広く見られるものであり(「田面」や「活売」、「上地」や「質地」)、また契約文書を伴っていた。資料にもとづく歴史研究と経済原理の双方をつきあわせる研究ができる論題かもしれない。

・前近代のイスラーム地域において、利潤・利益がどのように運用され、経済の成長・衰退につながったのか、という問題は、研究が全く?進展していない。その第一の理由は、長期の取引をカバーする帳簿資料が残っていない、見つかっていない、からである。ワクフ財については、オスマン朝のスルタンの建設・寄進による宗教施設の収支簿が残されている場合があるが、一般人のワクフについては残っていない。日本近世の農家や商家、あるいは中世イタリアの商業帳簿の豊富さに比べて、帳簿の不在は謎となっている。不在の理由としては、ヨーロッパや日本では、法人や家が経営主体となり、長期的・継続的な収支・損益の計算や管理がなされていたが、イスラーム法では、所有権をもつものは個人だけであり、ムダーラバのような合資においても、営業のたびに、収支(損益)計算を行って清算することになっていた。他方で、個々人の財産(遺産)については、イスラーム法廷の台帳に、動産・不動産・債権を含めて、個々の項目ごとに金額を記して集計した遺産(財産)記録が残されている(これを用いたEstablet&Pascualの17~18世紀ダマスクスの資産・経済研究がある)。オスマン時代については他にも、法廷台帳の売買・賃貸などのデータを用いた社会経済史研究があるが、S・ファローキーやN・ハンナ以降の世代は、法廷の言説に研究のウエイトが移っている。

・イブン・ハルドゥーンが着目した、広域の経済(労働力の移動や賃金・物価の変動)と王朝(国家)の経済の盛衰との関係は、近代の、あるいは現代のグローバル経済の問題とも関わっている。イブン・ハルドゥーンは、王朝の経済さらには王朝そのものの盛衰を、歴史の原理として記述(分析)するが、(いまや)国や国民の利益の追求を掲げない(無視できる)国家は存在しない。企業や家も同様である。本書では、経済主体として個人(のみ)を対象としたわけであるが、集団(団体)という単位、その単位での利益やモラルといった要素を検討する必要があるだろう。

・「比較史のアジア」は、4つの論題からみたアジアの3つの地域の横並びの比較研究であり、本書「モビリティ」は、(イスラーム)経済のモビリティ(コネクティビティとフレキシビリティ)を起点に類似の制度を取りだし、金融資本主義にかわる「普遍」的なオルタナティブの提案である。経済を主題とし、明確なゴール(目標)を設けたがゆえに、単線的になったきらいがある。とすれば、第3ラウンドは、⑤「イスラーム」を外し(それにこだわらず)、⑥主題とその分析の枠組み(軸線、パターン)を提示し、論題に応じて⑦地域を自在に設定し、⑧国家や秩序や文化も射程にいれ、⑨経済・社会システム(全体)のオルタナティブを「想像」してはどうだろうか。そこでは、貨幣と金融(借金・投資)がパラドキシカルな(市場・社会の)主体として、登場するのかもしれない。

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