Blog #6 「ロシアのムスリムと人のつながり」

2022.01.26

カテゴリ: イスラーム信頼学ブログ

執筆者: 磯貝 真澄

最近、ある中国人の同僚から次のように言われた。「日本人は、とても個人主義的だ。冷たい。」私自身は、「日本人は……」「中国人は……」という語り方で物事を説明するのが好きでないのだが、それでも、たしかにそうした傾向はあるかな、と思った。中国人の同僚たちは、私からみれば相当にプライベートな事柄をよく話題にし、かなり親密な関係を築く。それに比べれば私は、少なくとも職場では、そこまでプライベートを明らかにしようとは思わない。

20年近く前、私はロシアのカザンという街に留学していた。ヴォルガ川の中流域にある人口110~120万ぐらいの都市で、学校はカザン大学という、レーニンの母校だったのだが、最初に戸惑ったことの一つは「どこに住んでいるの?」と尋ねられることだった。この質問への返答は、かなり具体的でなければならない。「ゼリョーナヤ(緑の、の意)通り、トラム2番の停留所「建築大学」のところ。」自宅の場所がほぼ特定できてしまうが、仕方がない。ここでは人と人との距離が近い。私はこれに慣れるよりほかなかった。

カザン大学には若きレーニンの像がある。髪のある姿である。(2017年9月、磯貝真澄撮影)

「イスラーム信頼学」の研究プロジェクトで、私は公募研究課題「18~19世紀のロシアにおけるイスラーム法学の継承をめぐるムスリム知識層の形成」を進めている。現代ロシアで、ムスリムは宗教マイノリティ集団として最大であり、人口の6、7%から1割を占めるとみられる。歴史的にも、とりわけいくつかのムスリム集住地域――ヴォルガ中・下流域やウラル山脈の南麓、クリミア半島、カフカース地方など――では、社会におけるムスリムの存在は大きなものだった。私はヴォルガ・ウラル地域のムスリム社会の歴史を研究しているが、この研究課題では、18~19世紀後半のウラマー社会における知的・人的なつながりの様相を解明し、それによって彼らがどのような身分集団的社会層を、どのように形成し、維持していたのか、そしてそれはどのように変化したのかを明らかにしようと考えている。歴史資料からは、イスラーム法学者、学識者であるウラマーが、イスラーム諸学の知識の継承にともなう師弟の人としての結びつきを非常に重視し、ときには師匠の娘と弟子が結婚するなどして姻戚関係をとり結び、ムスリム社会の中で社会層を形成していたことが見えてくる(ちなみに、それはロシア帝国の身分法制とは別物だ)。彼らの存在こそがロシアにおけるイスラーム信仰保持の鍵だったのだが、私はそのディテールを明らかにしたいと考えている。それは、先に述べたように現在でも比較的密な人間関係を作ろうとする人びとが、人のつながりに基づく社会集団を作った歴史的過程を解明しようとするものである(ただし、その密接な関係への志向がイスラーム的な文化に由来するのか、ロシア文化なのか、さらに広い範囲で共有されるものなのか、私は分析材料を持たないが……)。

ロシアのウファ市の第1集会モスク。美しい佇まい。(2019年9月、磯貝真澄撮影)

このように説明すると、私の研究対象が互いに結束の強い人びとの、どちらかと言えば閉ざされた集団であるかのような印象を与えるかもしれない。しかし、決してそうではない。中東や中央アジアなどと同じように、ヴォルガ・ウラル地域のウラマー(になろうとしている学生)も、より高い学識を持つ優れた師匠を求めて遊学した。そうした学問の旅の行き先はブハラ・アミール国など中央アジアにまで広がっていたし、ヴォルガ・ウラル地域のウラマー社会ではブハラの学統が権威を持っていた。また、メッカ巡礼とあわせて中東に学びに行くウラマーもいたが、19世紀末以降はそうした人びとがさらに増え、ヴォルガ・ウラル地域でも、エジプトのアズハルの権威が共有されるようになった。私の研究課題は、ロシア・ムスリムがそのように国境を越え、中央アジアや中東のムスリムとの間に作った水平的な人のつながりの様相を描き出そうとするものでもある。

ウファ市第1集会モスクの外壁に掲示されたメッカ巡礼ツアーの広告。(2019年9月、磯貝真澄撮影)

ところで、歴史研究は、その課題に対して適切な歴史資料が存在することで、初めて可能となる。私の研究課題は、19世紀末~20世紀初頭にヴォルガ・ウラル地域のウラマーであるリザエッディン・ブン・ファフレッディン(1858~1936年)がウラマーの人名録を書き残したおかげで、挑戦できるのである。この『事績(アーサール)』という人名録はイスラーム中世以来の人名録の伝統に範をとって書かれたものだが、人名録史料をもとにウラマーの知的・人的つながりを再構成する研究手法は、イスラーム社会史として標準的である(ただし、膨大な量のデータを扱うため、成果を得るにはそれなりの労力を要する)。この点について、私には今後の研究の展開可能性、とくにロシア史研究との関係で最近考えていることがある。

ロシア帝国の身分法制においてウラマーを含むムスリムの多くは国有地農民だったが、実はロシア史では国有地農民の研究がそれほど進んでいない。その理由の一つは研究関心のあり方で、従来ロシア農民研究は領主地(皇帝から貴族に恵与された封地)の農民に集中していた。売買の対象であり、移動などに相当の制限が課されていた、いわゆる「農奴」である。もう一つはおそらく、国有地農民についての史料が十分でないためである。そうした研究状況に対して、私の研究課題は国有地農民(であるはずのウラマー)の移動と人脈づくりの状況を提示し、貢献できるかもしれない。イスラーム社会史からロシア社会史を議論し、両者を接続する可能性である。実際のところ、ロシアのムスリム社会の歴史研究はそうした学域横断的な知的刺激の得られる、おもしろみのある仕事だが、ひょっとするとそのことが、私の研究関心の継続の理由なのかもしれない。

執筆者プロフィール

磯貝 真澄(Masumi Isogai)

千葉大学大学院人文科学研究院・准教授

1976年生。2010年、神戸大学大学院文化学研究科修了、博士(学術)。東北大学東北アジア研究センター助教を経て現職。主著に「ロシアのウラマーとイスラーム教育網に関する試論:19世紀前半まで」(『史林』101(1)、2018年)、「ヴォルガ・ウラル地域におけるムスリムの遺産分割:その制度と事例」(大江泰一郎・堀川徹・磯貝健一(編)『シャリーアとロシア帝国:近代中央ユーラシアの法と社会』、臨川書店、2014年)。近刊に『帝国ロシアとムスリムの法』(共編著、昭和堂、2022年2月予定)。

ひとこと

ロシアのヴォルガ・ウラル地域のムスリム社会の近現代史を研究しています。現在の民族集団で言えば、タタール人、バシキール(バシュコルト)人の歴史です。ロシアのカザン市やウファ市で現地研究者の助言を頼りに歴史資料を集めており、彼らと一緒に仕事をする機会を重要だと考えています。彼らの人間関係のあり方にもすっかり慣れ、コロナ禍でもWhatsAppで連絡を取りあう日々です。

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