Blog #1 「小さな驚きから」

2021.01.06

カテゴリ: イスラーム信頼学ブログ

執筆者: 黒木 英充

シリアの首都ダマスクスの新市街高級住宅地。1950年代に多くつくられた、各戸天井高4メートルの、広壮な3階建て集合住宅。その地下住戸は、ジャスミンの庭をドライエリアとしており、秋の午後の日差しが優しく部屋の中を照らしていた。四半世紀近く前、私はそこでイランのカシュガーイー遊牧民の素朴な古絨毯が気に入り、代金を支払ったばかりだった。でっぷりした色白のオヤジさんは、旧市街のスーク(市場)に観光客向けの店を構えるが、大事な品はこの隠れ家に置いて商売するのだと、紹介者の絨毯通の邦人から聞いていた。アラビア語のダマスクス方言は、京都弁のように柔らかく甘い響きがあるが、この商人もその典型的な「ダマス弁」を話した。

何杯目かの紅茶を頂いている間に、お兄ちゃんがその小ぶりな絨毯をたたみ、袋に入れてくれた。立ち上がって主人と握手し、周囲の絨毯の山を最後に一瞥した。と、無造作に山の上に置かれた1枚に目がとまり、つい言ってしまう。「あれ、ちょっと見せて」

イランの絨毯名産地カーシャーンの古いものだった。柄は派手ではないがバランスがよくて堅実で、基調の赤橙色が渋い。足が動かなくなった。シリア人、特にダマスクスの人々は、数あるペルシア絨毯の中でもカーシャーン産を好む。なのでそれまで多くを見ていたが、これは別格のような気がした。20分くらい、ずっと眺めていたと思う。

とうとう値段をきいてしまう。すると、「普通は○○ドルのところですが」

ゆっくりふた呼吸。「おたくはんには勉強して××ドルにしときまひょ」

いつものやり方なのだ。わかってはいるけれども、惚れた弱みを握られてしまっている。なので、値切りは申し訳程度。

しかしたった今、1枚買ったばかりでもう手持ちがない。「明日帰国するけれど、次はいつ戻って来れるか・・・たぶん半年後かと思う。それまでこれを取り置きしてくれませんか。手付金を払います」と、若干の紙幣を渡そうとした。

オヤジさんはお兄ちゃんに声をかける。「これをたたみなさい」たちまち絨毯はキチキチ折りたたまれ、ギュッと縛られて袋に入れられた。「どうぞお持ちください」

開いた口がふさがらない。「いや、だって、今カネがないんですよ。次回に必ず払いますから、それまでこれを売らないで・・・」「おカネはあとでよろし。今、おたくはんがこれを気に入られたのやから、どうぞお持ちなはれ」「でもね、私の乗った飛行機が墜落するかもしれませんよ。私が東京で交通事故や病気で死ぬかもしれません。何が起こるかわかりやしない。そうしたらあなた、丸損じゃないですか」「おたくはんが喜ばれるのが私もうれしおす。手付金なんていりまへん。四の五のいわんと、持っていきなはれ」

妙な押し問答が延々と続き、先方が根負けした。私は手付金と残金の金額を記したメモを2枚作り、1枚を手渡した。こちらはほっとしたのだが、オヤジさんはなんだか後味の悪そうな顔をしていた。

ダマスクス新市街中心部を西側から望む(2018年7月 撮影・黒木)

1990年代、数次にわたり合計3年半ほどダマスクスに滞在することができました。当時のシリア人との付き合いの中で、驚かされたことが何度かありました。上記はその一つです。この絨毯は、半年か1年後か忘れましたが、残金を支払い、買うことができました。

「シリア商人、したたかだね」で終わりにすることはできます。しかし、この絨毯商人は私に一定の信用を置いて、商行為をその場で確定しようとしました。紹介してくれた邦人は彼のお得意さんでしたから、いつでも私への連絡はつく、リスクをとれると踏んだのでしょう。

ではなぜ私はその場で絨毯を受け取らなかったのか。予想外のことにびっくりしたのは確かです。当時のシリアはハーフェズ・アサド大統領(父アサド)の独裁下で、部分的に開放されたとはいえ、厳しい統制経済の下にありました。生活必需品や交通費は安価でしたが、ペルシア絨毯は、欧米や日本での価格より安かったとはいえ、現地では極めて高額な商品でした。なので、支払い後回しという掛け売りには、すっかり面食らったのです。

また今から思うと、私が債務を負うことを嫌がった、あるいはそうした関係に慣れておらず、踏み込むのを避けたとも言えます。明日明後日ならともかく、次はいつになるかわからない。それでも商人の側は商品を介した関係構築のために賭けたのです。ところが逆に手付金を押し付けられてしまった。彼が信用を置いてくれたのに、それを私が拒否し、互いにリスクをとらない関係に落としめてしまった。だからこそ、彼は面白くない顔をしたのでしょう。

後日、ダマスクスでビジネスをしている友人から聞いたところによると、シリアの商人同士の貸し借りは伝統的に口約束が原則で、そこで証文をとろうものなら相手にされなくなる、とのことでした。当時ダマスクスの文書館で19世紀の商都アレッポのイスラーム法廷文書を読んでいたのですが、貸借関係トラブルによる訴訟案件は、確かに時折登場しました。しかしその背後には、互いの信用に基づいた膨大な数の取引が存在するのだ、と実感した次第です。

ダマスクス旧市街南部に隣接するミーダーン地区(19世紀末の写真の絵葉書 所蔵・黒木)

本プロジェクトは、こうした小さな驚きがいくつも堆積したなかから芽を出しました。人々が様々なふるまいのなかで、積極的に関係をつくること、そこで広い意味での「信頼」(貸し借りの信用はこれに含まれます)を互いに確認し合うことが大事なのだ、とわかってきたのです。

さて、コネクティビティ(多方面につながること、関係づくり)と信頼構築の問題は、個人をめぐるミクロのレベルからグローバルなレベルまで、イスラームの長い歴史の中で重層的に広がってきました。システム化・制度化されたものもあれば、表面では見えないながらも、水面下で脈々と息づいているものもあります。こうした問題群に共同研究の形で取り組めないものか・・・この意識や考えが広く共有されているからこそ、各計画研究班代表者の声がけにより、たちどころに50人の研究者が賛同して研究分担者として参画してくださったのだと思います。

現在の世界を表現する言葉として「不信」「分断」は常連となってしまいました。イスラームに関しても、それはいっそう強いものになっています。これをのりこえるための知を見つけ出し、創り出すために、みなさん、一緒に考えてみませんか。多くの方々のご参加をお待ちしております。

執筆者プロフィール

黒木 英充(Hidemitsu Kuroki)

東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所・教授

1961年生。1987年東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了後、東京大学東洋文化研究所助手、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所助手、助教授を経て現職。編著にHuman Mobility and Multiethnic Coexistence in Middle Eastern Urban Societies 1 & 2 (Tokyo: ILCAA, 2015 & 2018), 『シリア・レバノンを知るための64章』(明石書店 2013)など。

ひとこと

シリア・レバノンの都市社会史、移民の歴史を研究しています。シリアには1980年代から内戦開始前年の2010年まで毎年のように訪れたり住んだりしました。レバノンは内戦終了後の1994年以降、2019年まで、特に06年にベイルートに『中東研究日本センター』の拠点設立以降は、年に何度も往復してきました。戦争や疫病が研究に及ぼす影響を痛感しつつも、現地滞在型研究の重要性を伝えていきたいと思います。

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