Blog #9 「神の啓示にイイネしていいのか」
2022.02.16
カテゴリ: イスラーム信頼学ブログ
執筆者: 二ツ山 達朗
みなさんは、どのようなものを通して「推し」活をしているでしょうか。一世代前の我々にとって、それは雑誌やテレビなどを通して知るもので、それが印刷されたポスターを部屋に飾ったりしていたものでした。そんな「推し」活はデジタルネイティブであるZ世代のみなさんにとっては古臭く感じるかもしれません。現代では「推し」のほとんどの情報はスマートフォンのなかで、特にSNSのなかで得られるのではないでしょうか。
「イスラーム信頼学」で「推し」の話をしているのは、イスラームの聖典であるクルアーンも、このように紙やテレビからスマートフォン・SNSへの変化と無関係ではないからです。これまで、ポスターなどに印刷されたクルアーンを部屋の中に飾ったり、カードに記された章句を肌身離さず持ち歩いたりすることは、イスラーム教徒たちのあいだで広く行われていることでした。私は北アフリカのチュニジアの小さな村で、部屋の中の装飾について調べたことがありましたが、全ての装飾のなかで約4割がクルアーンに関するものでした。また、テレビやラジオではクルアーンを専門とした番組やチャンネルがあり、それらを流している家やお店もよく見かけました。
そのクルアーンもこの数年でスマートフォンのなかで見聞きできるようになってきました。皆さんが「推し」の情報をYouTubeやInstagram、TikTokなどで見聞きするように、イスラーム教徒たちもそれらのSNSを通してクルアーンに触れるようになってきたのです。少し変に感じるかも知れませんが、みなさんの使い方と同じように、InstagramやTikTok上の神の啓示にイイネするし、バズる章句を投稿するインフルエンサーもいます。もちろん、紙に記されたクルアーンの需要がなくなることはないでしょう。しかし、あらゆる情報がスマートフォンを通してやり取りされる現代において、クルアーンを勉強することも、その解説を聞くことも、SNSを通して行うことが可能になりました。
当然、この変化はイスラーム教徒たちに大きな影響をあたえているはずです。全ての章が本のかたちにまとめられた聖典は重たく、持ち歩くのが大変ですが、スマートフォンさえあれば手軽に興味ある章を検索して見聴きすることができます。また、クルアーンは声にだして誦(よ)むことが大切なこととされていますが、音や画像が一体となって共有できることは、紙にはないSNSの利点ともいえます。さらには、新型コロナウイルス感染症によって巣籠生活をするなかで、SNSを通してクルアーンを学ぶ需要も高まっているでしょう。
しかし、クルアーンをSNSで共有することで起きる問題も多くあります。そもそも、クルアーンは神の啓示(言葉)をまとめたものであり、とても神聖なものです。それが記されたものは、敬意をもって扱われるべきとされ、汚い場所に持って行ったり、捨てたりすることはご法度とされています。先に述べた調査では、クルアーンが記されたものを丁重に扱い、捨てないように工夫しているイスラーム教徒たちに多く出会いました。このように神聖に扱われるべき言葉を、気軽にイイネや削除することは許されるのでしょうか。
またクルアーンは神から預言者ムハンマドに下された最後の啓示であるために、その言葉を変えてしまうこともご法度とされています。約1400年前に啓示を受けてから変わらずに継承されてきた言葉を書き写すことは、とてもデリケートなことです。近代になり中東でも印刷機が普及し始めましたが、クルアーンを印刷することは当時の社会では受け入れられず、ヨーロッパのほうが4世紀も早く印刷を開始しました。現在は各国の印刷所で刊行されていますが、学者をはじめとする多くの専門家たちによって、間違いがないように厳しいチェックがなされています。このようにイスラームの伝統では神の言葉を写すことは大きな責任をともなうことでした。
しかし、皆さんがご存知のようにSNSの特徴は、アカウントさえあえば誰でも自由に投稿や共有ができることにあります。その意味で、神の言葉をSNSに投稿・共有することは、リスクの高い行いともいえます。特に近年のSNSは、TikTokやInstagramに顕著なように、内容を少しずつアレンジしてゆく特徴があります。このようなSNSで、クルアーンの共有を繰り返すことは許されるのでしょうか。許されるのであれば、どこまでがアレンジされ、どこまでが変わらない/変えてはいけない一線なのでしょうか。
また、SNSはクルアーンにとって危険だという単純な話にとどまらず、SNS上のつながりは、イスラームの「信頼」や「コネクティビティ」に関わる問題になるかもしれません。というのも、これまで世間に出回っていたクルアーンは、先ほど述べたような専門的な知識を有する機関によって厳格な検査を経ており、それだけに「お墨付き」や「信頼」があったと言えます。例えば、サウジアラビアでは王立のクルアーン専門印刷所が国内の刊行を担い、クルアーン刊本の統一をはかっています。つまり、クルアーンは一部の専門的機関から人々に垂直的に共有される側面があるともいえます。一方で、SNS上のクルアーンのやり取りは、ユーザーの誰もが水平的に共有できる特徴があります。この垂直的から水平的な「コネクティビティ」の変化は、イスラームの共同体にどのような影響をあたえるのでしょうか。
ここで少し「推し」の話に戻れば、「推し」はSNSのなかで生きるZ世代を象徴するような言葉に思えます。それに代わる一世代前の言葉はアイドルかもしれませんが、それはテレビや雑誌などの垂直的なメディアによってつくられていたものでした。一方、SNSではそれらのメディアを通さずとも、各ユーザーが興味のある内容を、投稿者から直接見聞きできます。個々のユーザーが自分の好みを選択するからこそ、私の「推し」なのであり、それは水平的なメディアだからこそ生まれた言葉とも考えられます。そこでは従来の専門的な機関による「お墨付き」の意味は薄くなり、誰しもが「推す」ことも「推される」存在にも(インフルエンサーにも)なりえ、アイドルと一般ユーザーの境界も曖昧になります。SNSがこのような新たな関係や存在を生み出す、水平的な「コネクティビティ」だとすると、これまでの長い歴史のなかで垂直的に共有されてきたクルアーンの「信頼」にどのような影響をあたえるのでしょうか。約1400年のあいだ継承されてきた伝統は、この数年で浸透したSNSで簡単に揺らぐことはないでしょう。しかし、イスラーム教徒がSNSで宗教的な内容を投稿・共有し続けるのであれば、SNSとは別の世界で垂直的関係が継承されてゆくか、もしくはSNSのなかで新たな「信頼」や「お墨付き」がつくられてゆくか、そのどちらかになるかもしれません。
このように、SNS上のクルアーンのやりとりについて注目することは、イスラームの「信頼」と「コネクティビティ」の近年の動向について考えることになりそうです。
2013年2月14日チュニジアの調査地の床屋において筆者撮影:額縁に飾られたクルアーン(雌牛章225節と人びと章)
2019年2月22日チュニジアの調査地の床屋において筆者撮影:写真右にいくつかのクルアーンの章句が見える。また写真左上のテレビからはクルアーンのユースフ章が流れている