Blog #16 「麦とパンと政治と暮らし――食と農から見える世界のつながり」

2023.09.12

カテゴリ: イスラーム信頼学ブログ

執筆者: 井堂 有子

 エジプトを訪れると行きたくなるのがカイロ・ドッキー地区の農業博物館です。街の喧騒とは打って変わり、王政時代の1938年に遡る博物館の門内には大きな木々と鳥たちの囀りが響き渡る別世界が存在します。植物コレクションの建物に入ると、ナイル河を中心としたエジプトの大きな地図や灌漑システムの設計図が壁に掲げられているのがみえます。昔ながらの農業用具や秤、穀物を磨り潰してパンを捏ねる古代人(人形)たち、各地の農作業の様子を撮影した古写真の数々、土壌や穀物毎の展示会場と多様な品種の標本、穀物袋を船で出荷する様子や製粉・パン作りに勤しむ職人たちを模した愛らしいミニチュアたち。観光地の派手さはありませんが、古くからの農業大国としての誇り、ナイル河とその恵み(穀物)への愛情が詰まった渋い博物館です。「小麦・大麦の部屋」の展示を見るたびに、麦の原産地「肥沃な三日月地帯」の西端にエジプトが位置することを思い出します。ローマ帝国時代、地中海の東と南の地域は「穀倉地」として北(今の欧州)の胃袋を満たしていたそうですから、この地の人々が「古代から小麦を食してきた民」を自負するのも当然なのでしょう。

 しかし過去の栄光は遠くなりにけり。いまやエジプトは世界最大の小麦輸入国です。なぜなのか。2022年2月のウクライナ危機を契機にこの問いを改めて考えています。黒海封鎖による穀物・肥料等を中心とした物流の頓挫により、一時世界的な食糧危機が懸念され、同年7月の国連とトルコの介入によるロシア・ウクライナ間で「黒海穀物イニシアティブ」が締結されました。この合意に基づいたウクライナ産穀物の輸出再開により国際市場の穀物価格は低下しましたが、依然高止まりは続いています。2023年に入っても、停戦合意の気配もないまま、ロシアの穀物合意からの離脱宣言と交渉の継続等、不安要因が続きます。

 今回の危機で世界的に注目されたのが、エジプトを含む中東・アフリカ地域の多くの国々による主食穀物(小麦)の輸入依存でした。かつての米国の食糧援助の時代、世界の「穀物メジャー」優勢の時代を経て、「新興穀物輸出国」としてのロシアとウクライナの台頭と呼応しながら、特にここ10年ほどは、黒海・地中海を通じた両国からの穀物(主に小麦)の輸入が大きく伸びていました。

 本公募研究「有事と食糧――中東・北アフリカにおいて試されるコネクティビティと信頼構築」では、特に中東・北アフリカ地域を事例に、安定的食糧供給における地域協力の可能性を模索するため、3つのアプローチで考察しています。

 一つ目は、地域全体の共通した構造的特徴とともに、各国での個々の文脈や課題の特定です。ムスリム人口が多数を占める中東・北アフリカ地域では、限られた水資源や耕作可能地、急激な人口増加という条件の下、各国内で進められてきた食糧政策や国内農業生産・消費パターンの変容を伴い、小麦を中心とした主要穀物の輸入依存が強まってきました。将来的に熱波や干ばつの常態・頻発化によって農業生産の停滞が予想される中、今回のウクライナ戦争のような有事に対応する態勢は整っていません。自身が取り組んできたエジプトを中心に、他の各国状況については諸先輩との共同研究会等を通じて学んでいます。

 二つ目は歴史からの教訓です。「戦争と食糧供給」は人類史の永遠のテーマですが、中東においても幾つもの重要な事例が存在します。本研究では特に大戦間期のふたつのケース(第一次世界大戦期のレバノン山地の飢餓問題と第二次世界大戦期に連合軍によって設立されたMiddle East Supply Centreの役割と機能)について先行研究の整理とサーベイを中心に考察しています。戦争による物流の頓挫や食糧供給の停滞がどのようにして発生したのか、またどのようにして解決されたのか等、今日の課題にも示唆を与えうる教訓を学び取ろうとしています。

 三つ目は、食糧供給と地域協力です。アジア地域でも穀物輸入依存度が年々増加してきていますが、自然災害や食糧危機の発生に備える地域協力のメカニズムの事例があります。本研究では、先行研究サーベイを中心に、特に「アセアン+3緊急コメ備蓄(APTERR)」と「南アジア地域協力連合フードバンク(The SAARC Food Bank)」の経験と教訓から、類似の地域協力のメカニズムやシステムが存在しない中東・北アフリカへの示唆を得ることができないかと模索しています。

 食は人間の生存に欠かせません。時代と地域を超えて、信仰や文化、政治や経済、自然との共生と破壊の問題等、人間の活動のあらゆる分野に跨ったテーマであり、さまざまな議論が存在します。本研究に関連した特に主食の穀物をめぐっては、「比較優位に基づいた自由貿易」対「国内生産・自給率の向上」という伝統的な(時に二項対立的な)議論があります。19世紀英国での穀物法論争を嚆矢に今もなお続くこの論争は、「農業力を持たない工業国の弱さ」という論点を含め現在の日本にとっても重要ですが、いずれもグローバル経済下の国家を主体とした議論です。気候変動による影響など、国境を越えたさまざまな課題に直面する現在、国家単位の思考や対策には限界があります。食糧危機に対応するには、生産から流通、消費に至るまでの重層的なレベルでの食の安全保障の仕組みが大切です。中東・北アフリカを事例にしつつ、本研究は信頼に基づいた持続可能な地域協力のコネクティビティはいかにして可能なのか、考察しています。


写真:エジプト農業博物館内の「植物の豊かさコレクション博物館」の建物正面(筆者撮影)


写真:農業博物館内「小麦と大麦の部屋」(筆者撮影)


写真:エジプト農業博物館内「小麦と大麦の部屋」のパン職人たちのミニチュア(筆者撮影)

執筆者プロフィール

井堂 有子(Yuko Ido)

東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所・ジュニア・フェロー

オランダ国立社会科学国際研究所修了。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得満期退学。2001~12年にエジプト,シリア,スーダン等で調査分析・開発援助の実務に従事。専攻は中東地域研究,開発学。関心テーマはエジプトを中心とした中東・北アフリカの政治経済,食の安全保障。最近の論考に「ウクライナ危機と中東・アフリカ――『人間の安全保障』としての食糧問題」日本国際問題研究所編『移行期にある国際秩序と中東・アフリカ』 (2023年3月), 岩崎えり奈氏との共著「エジプトの食糧不安――対外依存と都市の脆弱層、食糧補助金制度を中心に―」『アジア・アフリカ研究』第63巻3号 (2023年7月),「複合危機が襲う中東・アフリカ―『黒海封鎖』以前の構造的課題」『世界』2022年10月号,「危機とレジリエンス:エジプトの食糧配給と国家・軍部の役割」井堂有子・郷戸夏子・近藤則夫・長沢栄治共編著『胃袋を満たす国家の戦略――戦後日本,インド,エジプトの事例より』SIAS Lectures 8 (2022年2月)など。

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